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2018年春の正平さんの自転車の旅 [雑記]

BSの火野正平さんの自転車の旅が始まりました。スタートの2日は沖縄県の南大東島からでした。南大東島は私の父が終戦を迎えた島です。

新聞社勤めをしていた父はソウルで召集され、夜間運行の軍用列車で中国へ移動して新兵訓練を受け、所属部隊と共にインパール作戦に。が、現地ビルマでマラリアに罹り、後方送還され、シンガポール、香港を経由し、大村の陸軍病院で引き続き入院中に南大東島の守備隊に編入(元の所属部隊はインパール作戦で全滅した。)させられました。(短期間でも日本の大村の陸軍病院に戻れたのは幸運としか言い様がない戦局だったようです。)


父は今月の2018年3月8日に亡くなりました。101才でした。南大東島の守備隊での話や新兵の時の話を聞いたのはつい5年前です。彼が96才の時、私が63才の時です。軍隊時代の話はそれまではほとんど聞いたことがありませんでした。思い出すのも嫌だったのでしょうね。

これまでは台風接近の折にテレビのニュース画面や、本当にごくたまの旅番組での少しの南大東島しか見たことはありませんでした。今回の正平さんの番組で知ったのは南大東島は開墾されて約100年だそうです。

そうすると終戦時は人が住みだして(まだ)30年(しか)経ってない時だった訳です。当時は飛行場もあったようです。父も伝令で滑走路を走っている時に米機の機銃掃射を受けたとも話してました。この島(飛行場の)の制圧を米軍は一度は計画したのでしょうけれど、主目標が沖縄本島になり南大東島守備隊は前線の敵側に取り残されてしまったのではないか、父の話を聞いていた私はそう思ったのを覚えてます。南方戦線でも、そのような島は多くあったようです。前線の敵側に取り残される訳ですから、無視されるように戦闘行為もない場合もあったようですし、味方からの補給も当然なく、餓死していった日本軍兵士は多かったようです。

南大東島はサトウキビが主な産業の島のようです。2日間、正平さんの自転車での南大東島を見て、多分、補給はこの海岸で輸送船からハシケのような小型船に積み替えて行ったのだろうな、隠れようがない島で「一体何の為の守備隊なのか」の絶望感もあっただろうなぁ、と、番組とは別に、彼27才の頃の軍服姿を想像しながら考えておりました。


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